まちづくりと家庭医2

家庭医がコミュニティを育てる日々の記録

正しくやるということについて

「正しさ」というものは厳しく考えれば結構自分を苦しめるものである。
プロパーさんが持ってくる美味しいお弁当が食べられない。おまけのボールペンも捨てるのは忍びない。
学会のランチョンセミナーのただ弁当。代わりに地元の美味しい物を食べれば良いのだが。
ホウレンソウができない後輩にどう接するか。ボスマネージメントという関係をまず意識させるのが大変。敬意のない若者。
また、秘密らしきものを知ってしまったときにそのままにしておけるか。すぐ離してしまいたくなる衝動もあるだろう。


「正義」と言い換えてもいい。自分だけの正義、仲間内の正義。
駅で福島フェアがやっているだけで泣けてくる。気仙沼の様子をテレビで見ても悲しくなる。
節電を一生懸命やっている人たちをみて、東京電力が隠し持つ電力を教えてあげたくなる。


医療の場合は、患者の病気が治りさえすれば、とりあえずは正しいと言っていいことになっている。
病状に対して広範囲すぎるスペクトラム抗生物質をぶっぱなしても、治れば文句は言われない。殆どの人は検査から帰ってくる感受性を見て安心する。ああ、当たってましたね、と。


正しくやりすぎてもだめ。無茶苦茶やってもダメ。だったらやぶ医者風に格好悪くやるのでどうだ。プロフェッショナルは「知りながら害をなすな」とヒポクラテスは言ったらしい。知ってしまった者の苦しみというのか。。