まちづくりと家庭医2

家庭医がコミュニティを育てる日々の記録

主治医問題

ふと思いついた。ねっこはここにあるんじゃないか。
うちの病院でもあるけれど、主治医になるという制度がある。一人の患者さんを担当して、私はあなたの先生ですということでいろいろ指示をだしたり方針を決めたりする。
ここで齟齬が生じる。外来でも入院でも、決めた方針はひとりだけで決めることになる。もちろん重要事項は複数だし、回診とよばれる発表会もあるが、ほとんどのささいなことは単独で決められてしまう。
そのため、担当した医者によって、医療が変わってしまう。裁量権というものが与えられているというふうに表現されることもあるが、つまりは勝手にやっていいということである。
いい悪いは別にして、舞鶴市民病院で目撃した医療はこれとは違っていた。どんなにシンプルな疾患を受け持っても、必ずみんなの前でプレゼンテーションをしなければならない。治療なら十分分かっている低ナトリウム血症について、研修医並に説明することを要求される。つねに開示している状態になる。自分の考えは一度外に出さなければならない。自分一人の考えで決まるというようなことは許されない。
多分、ほとんどの医者は、医療、そのなかでも「医学的判断」と呼ばれている部分を一人で決定している。それが最大の問題で、それぞれが「事業主」のようになってしまう構造がある。看護師も薬剤師もお伺いを建てるけれども、きつくは言えない。それがたとえ明らかに間違っていても。
かつての舞鶴のように、医療判断を医者同士でオープンに話しあえている医療機関はどれだけ増えたのだろうか。経験年数が上の医師に意見することはいまだに難しいのだ。それぞれがそれぞれに医療をしているが、その共有はまったくできていないのではないだろうか。