まちづくりと家庭医2

家庭医がコミュニティを育てる日々の記録

病院の世紀の理論を読む

診療所勤務で普段は往診24時間対応の当番が当てられている。ほとんどは看護師さんが何とか対応してくれるので、医師が呼ばれることはほとんどない。そのせいかどうかわからないが、基幹病院から当直してくれという依頼が来る。

全国のどこの病院でも同じかもしれない、診療所医師であっても病院で当直をする。というかさせられている。当直医師が足りないからである。バイトを頼むより仲間に頼んだほうが質がいいはずだし気心がしれている。そして安い。
病院から出たのは、診療所医師もいっしょに地域の医療を守りましょうという文章だった。みんなで協力して平等に。私はすぐ平等なんてあり得ないんじゃないかと思った。だって診療所医師は重症管理も鑑別診断も病院医師と同じわけにはいかないのだから。年もとっているし専門医療からも離れている。  
 
こういう話には根底にある別の思想が隠れている。医師は誰も同じ能力を持たなければならないというやつだ。それによって均等に任務を分配しようという。少なくともフルタイムで働くと宣言したらそれは奴隷として働くと表明したやうなものである。
 
猪飼先生の病院の世紀の理論を読み始めた。第一章で日米英の医療供給システムについて論じられている。結構難しいので細かく説明するつもりはないが、医師の端くれとして読んだときにうなづけたのは、それぞれが三つの医療供給の原理的差異でわけられているのではという仮説である。身分原理、所有原理、開放原理と進む。
専門医と一般医の身分があるか、医師が病床を持つか(有床診療所のような)、ベッドが開放されているか。日本は専門医がプライマリケアをやったり、本来セカンダリのみの病院外来がプライマリケアを担当していたりするし、個人病院が多いこともある。病院のベッドは病院医師に対してのみ使用され閉鎖的である反面、自由にベッドを持つことができるので医師にとっては開放的だ。
 
ここからは私の個人の考えだが、日本では診療所医師に対しても病院の医療を要求する。つまり病院で働くことができることがすなわち専門性とされているのではないだろうか。10年以上もの間に得た病院での専門技術が落ちていくことを極端に嫌い、診療所に落ちた医師を近医とくくる文化が出来上がった。病棟が見れない医者は駄目だとうそぶく若者もいる。専門医と家庭医の戦いは病院と診療所の代理戦争か。
英国のように明確に一般医と専門医の能力が分けられていない日本。それを一から構築するのは無理がないか。アメリカ従属の日本ではそちらを追従するのが自然な気もするが。その辺の話はまた次回。